宇田城(うだじょう)

「戦のための城、宇田城(うだじょう)」

 宇田城(うだじょう)は、久司浦(くじうら)地区の東側、鯨池公園(くじらいけこうえん)の近くにあったと言われています。今は、お城(しろ)はありません。

 宇田城は、鎌倉時代に今の愛媛県・西条市から移住してきた武士の宇田氏(うだし)が作ったと言われています。何のために作ったかというと、「住むため」ではなく、「戦さのため」に作られました。戦いに備えて、山のおねを開たくして平たん地をつくって建てたそうです。住むための館は、久司浦地区(山のふもと)にありました。宇田城のあった所は、「城山(しろやま)」といい東西南北の四方に要さいがありました。

 室町時代の終わりに、宇田氏は農民になって田頭と名前を変えて、因島に移住し、一部は久司浦に残りました。宇田氏は、武士ではなくなったので、宇田城は戦いのためには使われなくなりましたが、江戸時代(えどじだい)までは参勤交代(さんきんこうたい)の時、船が通ることを知らせるのろしを上げる「ほう火台」として形を変えて使われていました。この場所を「火山」言います。

(写真:左が火山、右が城山)

 上島町には、他にも亀山城(かめやまじょう)という城が岩城島(いわぎじま)にありました。村上水軍にゆかりがあった城で船をとめる柱の跡(岩しょうピット)を見ることができます。他にも、弓削島の沢津(さわづ)地区と上弓削(かみゆげ)地区の境のとみ山に上弓削城(弓削城山城)があったと言われています。

【取材協力】
上島町教育委員会 学芸員
有馬 啓介(ありま・けいすけ)さん

【調査・文章】
2017年度弓削小学校6年生

関連記事