弓削の荘園時代
「弓削が東寺の荘園(しょうえん)になるまで」
弓削島(ゆげしま)は、鎌倉時代、京都・東寺の荘園として塩を納めていたことで知られています。
荘園とは、奈良時代から室町時代にかけて、貴族・寺院・神社などが持っていた私有地(しゆうち)です。自ら開拓(かいたく)した私有地については、税を納めなくてよかったり、役人の立ち入りがめんじょされたりしました。そのため、人々は未開たく地の木をばっさいし、荘園を作りました。
1135年(長承4年)、当時力の強かった鳥羽上皇(とばじょうこう)に住民が土地を寄進(※)し、弓削島は鳥羽上皇の荘園になりました。
やがて、武士の時代が始まり、弓削島をふくむ荘園が鳥羽上皇の息子の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)に受けつがれました。その次に、後白河上皇の娘の宣陽門院(せんようもんいん)に荘園が受けつがれました。しかし、武士の台頭にともない、土地を治められなくなり、宣陽門院が深く信こうしていた弘法大師にゆかりのある京都の東寺に荘園を寄進することになりました。この時、弓削島もいっしょに寄進され、弓削島は東寺の荘園になりました。
生名島(いきなじま)、岩城島(いわぎじま)、佐島(さしま)は京都の清水八幡宮(しみずはちまんぐう)の荘園だったと言われています。
※寄進(きしん):寺や神社などに土地や財産を寄付すること。
【取材協力】
上島町教育委員会 学芸員
有馬 啓介(ありま・けいすけ)さん
【調査・文章】
2017年度弓削小学校6年生