弓削商船創立の歴史

■商船が弓削にできた理由

国立弓削商船高等専門学校(こくりつゆげしょうせんこうとうせんもんがっこう)は、弓削島にある高等専門学校です。現在は、商船学科、電子機械工学科、情報工学科の3つの学科があり、約660人の学生(平成30年度現在)が学んでいます。ここでは、弓削商船の創立(そうりつ)の歴史について説明します。

弓削商船高等専門学校は、明治34年(1901年)1月11日、ゆうしゅうな船乗りさんを育てるために創立されました。最初は、「組合立弓削海員学校」という名前でした。創立までに、話し合いをふくめて、1年半ほどの月日がかかったそうです。

商船学校は当時、全国に11校ありました。明治8年に、東京に初めてでき、その後、全国にたくさんできました。現在は、全国に5校(富山・新湊(しんみなと)、三重・鳥羽(とば)、広島・大崎上島、山口・周防大島(すおうおおしま)、愛媛・弓削)に減りました。3校が瀬戸内(せとうち)にあります。

しかし、なぜこの小さな弓削島に商船学校ができたのでしょうか。それは、もともと弓削島では、船乗りになる人が多かったからです。具体的には、明治34年の弓削の人口5272人(男性2510人)のうち、船乗りは、735人もいたそうです。そして、当時の弓削の人は、これからの弓削の発てんのためには、免許(めんきょ=資格)を持った船乗りさんを育てることが必要だと考えました。なぜ、免許が必要なのかというと、給料が大きくちがうからです。給料は、当時のお金で、免許のいらない船乗り(水火夫)が、8〜10円だったのに対し、免許が必要な甲種(こうしゅ)船長(※1)は75円以上ももらえたそうです。約9倍以上の差がありました。

※1 外国を航海できる船の船長

■商船をつくるのに活やくした方

こうして、世界で活やくする人を育て、島の経済やくらしを豊かにすることを目指して、弓削の人たちは島に商船学校ができるよう、働きかけました。弓削商船をつくるのに特に活やくしたのは、田坂初太郎(たさか・はつたろう)さんと中村清二郎(なかむら・せいじろう)さんです。

田坂初太郎さんは、弓削島出身の船乗りです。甲種船長という一番難しい資格を早くに取り、船長から船主(船の持ち主)、事業家(社長)にもなった方です。大変なお金持ちで、弓削の土地の1割ほどを持っていたそうです。日本ペイントや日立造船(ひたちぞうせん)といった大きな会社の社長もつとめ、衆議院議員(しゅうぎいんぎいん)もされていました。ふるさと弓削島に、商船学校をつくるため、力をつくされた方です。

中村清二郎さんは、当時の村長さんです。この小さな弓削島に商船学校を作るために、とても苦労されたそうです。

また、弓削商船の発てんに欠かせない人が、初代校長の小林善四郎(こばやし・ぜんしろう)さんです。小林校長は、東京の三菱(みつびし)商船学校を第2期生として卒業しました。その後、大阪商船学校につとめ、校長になりました。他の学校の校長にもなり、立派(りっぱ)な教育者としてそんけいされていました。弓削の人たちは、小林先生に、ぜひ弓削商船の校長になってほしいと思いました。だから、当時の村長の給料よりも、約10倍の給料を出して小林先生を招いたそうです。

(写真:小林善四郎校長 国立弓削商船高等専門学校所蔵)

■初代校長小林先生の教え方

創立された年に入学した学生は30人ほどいました。その年末には20人に、3年後には9人に減りました。その中で5人だけが卒業できたそうです。弓削商船を卒業するのは、とても大変だったのです。初代校長、小林善四郎さんは、学生をきびしく指導しました。なぜかというと、船員になるためには、体力と強い精神力が必要だったからです。

<小林校長の指導の例>

◎雨や雪の日は、くつをはいてはいけない。また、はだしで登校して、雨具を使ってはいけない。

◎寒い雪の日でも、作業はいつもシャツ(作業着)1まいでする。

◎嵐の日は、ボート訓練をする。

◎校内の清そう、植木の手入れ、野菜作り、梅干し作りなども学生が行う。

(写真:小林善四郎校長の指導の様子 国立弓削商船高等専門学校所蔵)

また、3年生になると「原書(げんしょ)」といわれる英語の教科書を使って勉強していたそうです。この結果、弓削商船の学生はゆうしゅうで、当時の卒業生はしゅう職するときに、試験なしで入社できたと言われています。

また、当時、他の商船学校では、練習船がしずんだり、事故が起こるなどして、命を落とす学生が多くいました。小林校長は、そんなことがあってはいけないと、練習船を使わせず、安全性の高い船会社の船に乗せ、実習させたそうです。学生の命を大切にしていたのです。

小林校長はきびしいだけでなく、学生を家族のように大切にしていました。当時は、下弓削にあった小林校長の家のそばに、りょうがありました。小林校長は、夜、家に学生をまねいて、いろいろな話をすることもあったそうです。

■いろいろなエピソード

弓削商船に関係ある昔のエピソードとして、次のようなこともあったそうです。

◎遠くから来ている学生もいたので、運動会などの行事には、親の代わりに地いきの人がおうえんしに行っていた。

◎外に働きに出る人が多く、弓削に消防団員が少なかったころがあった。そのときは、学生がポンプを整備したり、消火活動などをしてくれていた。

◎修学旅行は、「カッター」という船をこいだり、高知まで歩いて行ったこともあった。

◎弓削の女の人はおしゃれだった。なぜかというと、外国から久しぶりに日本の港に寄っただんなさんに会いに行くことがあり、そのときに、都会の情報を仕入れることができたから。

◎船員さんは、長い航海中のひまな時に、模型(もけい)を作ったり、まんがをかいていたりした。

◎弓削の人は、世界各地、色々な場所に行く船員さんにお願いして、本を買ってきてもらったので、様々な本を手に入れることができた。

当時は、男子校でしたが、今は共学となり、商船学科以外の学科もでき、時代に合った専門的なことを学べる学校になっています。

(イラスト:カッターボートをこぐ様子)

【取材協力】

田坂與紹(たさか・ともつぐ)さん(1933年生まれ・弓削島出身)
弓削町誌編集委員・田坂初太郎さんのご親類

国立弓削商船高等専門学校
※クリックすると、「弓削商船高等専門学校のホームページ」に移動します。
【参考文献】
弓削町役場『弓削町誌』1986年(昭和61年)

【調査・文章・写真・イラスト】
2018年度弓削小学校6年生

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