船上の料理人の仕事
『船の上の料理人〜司ちゅう長・司ちゅう員〜』
弓削島には、船員(船乗り)をされていた方がたくさんいらっしゃいます。船員の中でも、乗組員たちのために毎日料理をする人のことを「司ちゅう員(司ちゅう手ともいう)」、そのリーダーを「司ちゅう長」といいます。
■中学校卒業後、司ちゅう員になった
お話をうかがったのは、國延隆彦(くにのぶ・たかひこ)さんと濵村壽(はまむら・ひさし)さんのお二人です。國延さんは、主に外航船(日本と外国の間で物を運ぶ船)に、濵村さんは、ほげい船(くじらをとる船)に乗っていました。
お二人とも、1942年生まれの77才で、中学校を卒業したら社会に出たいと思ったそうです。國延さんは、学校の勉強がきらいで早く社会人になりたいと思い、福岡県の門司(もじ)にある海員学校で学んだ後、16才で司ちゅう員として働き始めました。濵村さんは、自分が働いて家族に楽をさせてあげたいと思い、15才で船員になりました。船乗りを仕事にしたのは、給料も生活(衣・食・住)が保証されていたからだそうです。濵村さんの船では、船に乗って最初にする仕事が司ちゅう員の仕事で、料理だけではなく、そうじや他の人の手伝いなどもする見習いのような存在だったそうです。
■司ちゅう員の仕事
一度船での仕事が始まると、國延さんは、最長で1年9か月、最短でも7か月間、乗船していたそうです。アメリカ、ロシア、インド、イラン、イラク、イギリスなどのたくさんの国に行きました。濵村さんは、5か月間の乗船と3か月間の乗船のくり返しだったそうです。南極に近いオーストラリアやニュージーランド、北海道の北にあるベーリング海に行きました。
國延さんの船では、司ちゅう長と司ちゅう員6~7人で、最大で62人分の食事を作っていたそうです。1回につき2時間ほど、かかったそうです。ちゅう房は船の後ろにあり、弓削小学校の会議室(約44㎡)より大きかったそうです。濵村さんの船では、司ちゅう長と司ちゅう員の2人でおおよそ24人分の食事を作りました。1回につき2~3時間ほどかけて作っていました。ちゅう房は船の真ん中あたりにあり、弓削小学校の会議室の4分の1くらいの大きさだったそうです。
國延さんの船の冷蔵庫は、野菜、冷蔵、冷とう、ロビー(解凍(かいとう)したり、次の日の材料を置く場所)の4つに分かれていて、1つが60㎡くらいあったそうです。他に、乾物(かんぶつ)、米を保存する場所もあったそうです。出航時には、ぎゅうぎゅうにつまっていて、食材を探すのが大変だったそうです。また、船には調理するための様々な道具がありました。アイスや豆ふなどを作る特別な道具もあったそうです。
■船で使う食器
船で使う食器は、割れづらい、厚い食器を使っていました。角があると割れやすくなるため、形は丸形でした。素材はせともので、模様はほとんどなく、周りに線があるくらいだったそうです。色は、白が多かったそうです。國延さんの船ではパーティーが行われることもあり、その時はうすく、きれいな食器を使っていたそうです。濵村さんの船では、昭和30年ごろ、メラミン製の食器を使っていました。このメラミン製の食器は割れにくく、雑にあつかってしまうため、キズがついてよごれが目立ち、食事をしていておいしそうに感じられないので不評だったそうです。また、使っていた食器は数が限られていて、種類が少なかったそうです。
■船上ならではの工夫
時化(しけ/海があれて船が大きくゆれること)の時は、手のこんだ料理が作れなかったので、カレーや焼きめしなどの汁(しる)が少なくて食べやすい一品料理を作ったり、テーブルの上にぬらした白布をかぶせ、木のわく(障子のさんのようなもの)で囲いをして、お皿がすべらないように工夫していたそうです。また、ちゅうぼうには、シュロのマットをしいて、すべらないように工夫していたそうです。
長い航海をする時は材料の補給や保管、料理の作り方にも工夫が必要です。
國延さんは、39才くらいのときに、司ちゅう長になりました。司ちゅう長は、こんだてを考えたり、食材の注文、管理をしたりします。行き先によっては、約40日間、港に寄らないこともあり、補給できないこともあったそうです。とちゅうで港に寄れる時は、野菜や魚などの生鮮(せいせん)食品を仕入れていたそうです。また、食材は早く傷むものから使ったりするなどしていました。濱村さんは、乾物類は自分たちの船に積んでいて、野菜や魚は別の船から補給していたそうです。
船の生活では、一番の楽しみが食事だそうです。四季を感じられたり、こんだてにメリハリをつけたりして、乗組員に喜んでもらえるように工夫したそうです。
船員に人気だったメニューは、國延さんはステーキ、濱村さんはにぎりずしだったと教えてくださいました。国延さんはパン、とうふ、こんにゃくなども船内で作ったことがあるそうです。
■船上では、水が大事
國延さんも濵村さんも、調理をする時は節水に気を付けていました。人間は、水(真水)がないと生きることができないので、飲料水は何よりも大切なものだったそうです。「水の一滴(いってき)は血の一滴」と言われるほど、大切にしていたそうです。皿洗いの時に水を出しっぱなしにしないことや、水を捨てずにためておき何回も使う、水をこぼさないよう容器をかまえてからじゃくちをひねるなど、節水に工夫と努力を重ねていたそうです。
※年れいは2020年3月末時点のものです。
【取材協力】
國延 隆彦(くにのぶ・たかひこ)さん(1942年生まれ、佐島出身)
濵村 壽(はまむら・ひさし)さん(1942年生まれ、弓削島出身)
【調査・文章・写真・イラスト】
2019年度弓削小学校6年生