著(ちゃく)神社

■著神社とは
(写真:著神社)

 著(ちゃく)神社は、弓削島の引野地区にある神社です。氏子(うじこ:地いきの人たちがまつる氏神様(うじがみさま)の神社の周りにくらす人)は、引野(ひきの)地区の人たちと引野地区のとなりの明神(みょうじん)地区の人たちです。祭神(さいじん:まつられている神様)は、大山積命(おおやまつみのみこと)です。

■大山祗神社とのつながり
 著神社は、大三島にある大山祇(おおやまづみ)神社と関係があります。著神社の手水鉢(ちょうずばち:神社の入り口にある水場)には、大山祇神社の神紋(しんもん:神社ごとのマーク)がしるされています。また、昔は、大山祇神社の祭礼の時に、明神地区の氏子から毎年新しい敷物(菰(こも))を納める習わしがありました。著神社の摂社(せっしゃ:小さな社)には大山祇神社の札もあります。そして、別の摂社には、石鎚(いしづち)神社の札もあり、毎年石鎚山に行っていたようです。
(写真:手水鉢)
(写真:大山祗神社の札がまつられた摂社)
(写真:石鎚神社の札がまつられた摂社)

■名前の由来
 著神社の名前の由来には、こんな説があります。平安時代の書の達人として有名な、「三蹟(さんせき)」のひとり藤原佐理(ふじわらのすけまさ)が、伊予国(現在の愛媛県)の海上に着いたあたりであらしにあって数日さまよっていた時に、「日本総鎮守大山祇明神」と書いたところ、あらしが止んで弓削島に着くことができたそうです。そのことにちなんで「着」としていたところ、それがなまって「著」になったという説です。そして、もう一つ、「客(きゃく)」という言葉がなまって著(ちゃく)になったと言う説もあります。

■明神地区には、もともと3つの神社があった
 著神社はもともと明神地区にありました。つまり、明神から引野にひっこししたということです。現在、明神地区には村松神社と山の神があるので、昔は、明神地区に3つの神社があったということです。村松神社は、弓削中学校の横にあります。著神社の秋祭りの時には、村松神社にもだんじりとおみこしがまわっていきます。また、すぐ近くに太平洋戦争後に建てられた藤原佐理の石碑(せきひ)もあります。この石碑は地域の方の厚意で作られたものだそうです。 

■鳥居と社殿
 著神社の境内にある鳥居(とりい)には、文政5年と書かれています。文政5年は1822年なので、約200年以上前につくられたということになります。現在の社殿(しゃでん)は、明治時代に改築されたものです。
(写真:著神社の鳥居)

■毎月行う月例祭
 著神社では、毎月22日に月例祭(げつれいさい)が行われています。参加する人は、引野地区からは地区長1名、宮総代(みやそうだい)2名、当番6、7名です。明神地区からも、地区長1名、宮総代1名、当番2、3名が参加します。月例祭ではまず、引野地区の班当番の人がそうじをします。その後で、明神地区の人も交えて神事(しんじ)をします。2合ビンのお酒を神様におそなえし、大祓詞(おおはらへのことば)をみんなで唱えます。次に、ごへいを2回ふりはらい、お神酒(みき)でかんぱいをします。昔から守られてきた伝統です。なお、1月の月例祭は「初祈祷(はつきとう)」、4月の月例祭は「春ごもり」と呼びます。

 また、10月は秋まつりで特別な行事になるため、22日ではなく、第4日曜日に行われています。昔は、10日に行われていたそうです。

■秋祭り
 秋祭りは、前日の夜殿(よどの)祭と本祭があります。夜殿祭は玉串(たまぐし)を供えます。18時に始まり18時半に終わります。本祭では、だんじりとみこし、道具持ちの行列が著神社を出発し、お旅所(たびしょ)で神事をし、また著神社にもどります。最後に、神社の社殿(しゃでん)のまわりを回ります。回る数は奇数(きすう)で、回れば回るほどよいとのことです。祭りをすることで、地区の人たちの家内安全をかなえてくれるといわれています。

【取材協力】
毎木 正博(ことき・まさひろ)さん(1948年生まれ、弓削島出身)
地本 正行(ちもと・まさゆき)さん(1947年生まれ、弓削島出身)

【参考文献】
弓削町役場『弓削町誌』1986年(昭和61年)
弓削町『弓削民俗誌』1998年(平成10年)
著神社『著神社扁額』1847年(弘化4年)撰文

【調査・文章・写真】
2020年度弓削小学校6年生

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