弓削の昔の暮らし:海で取れる肥料

『弓削の昔の暮らし:海で取れる肥料〜モバ(アマモ)〜』

■アマモ=モバとは?
 アマモは、細長い葉を持つ緑色の海そうで、肥料にすることができます。弓削島ではこのアマモのことをモバと呼んでいます(※1)。モバは深さ1〜10mのところに生え、長さ20〜100cm、はば3〜5mmほどの大きさをしています。古くは、塩づくりに使われました。魚が卵を生んだり、魚の赤ちゃんが敵からかくれたりする場所でもあります。

(写真:かんそうしたアマモ)

 昔は、畑の肥料は買うものではなく、作るものでした。弓削島では、1950~60年ごろまでよくモバを畑の肥料に使っていたそうです。

 弓削島の西岸、引野地区で一番よくモバがとれたのは、海をうめたてた、「新開」と呼ばれる場所だったそうです。その他に、ぬま地のようなところでもよくとれました。とりに行く季節は、だいたい夏で、一番とれたのは8月でした。そのため、夏はモバを肥料にしていました。冬は、冬によくとれる「ガラモ」という海そうを肥料にしていました。

■モバのとり方
 引野地区では遠浅(岸から遠くのおきまで浅い場所)の海岸で、潮(しお)が引いた時に、砂地(砂とどろが混じっている場所)に生えているモバを歩いてとりに行っていました。わらぞうりをはいてとりに行っていたので、「カラコゲ(オコゼ)」をふんでしまうこともあったそうです。カラコゲをふむととても痛く、ふんだ時は、川の水で冷やしたそうです。

 また、舟に乗ってとりに行くことも多かったそうです。舟の上からとる時は、竹の道具を使ってとっていました。道具は、2本の竹をクロスさせて、くぎで固定し、ひもでしばって作っていたそうです。はさみのように開いて、モバをはさみ、巻いてとっていました。

(写真:モバを取る竹の道具)

■肥料の作り方
 モバの肥料を、石でできた「土なや」とよばれるなやで作る家庭もありました。その土なやに、麦わら、モバ、麦わら、モバ・・・とサンドイッチのように重ねます。この時、海の中に生えていたモバはぬれたまま、砂はまで拾ったモバは重ねる時にひしゃくを使って水をかけて使っていました。

(写真:土なや)

 ここで難しいことは、砂はまでとってきたモバにかける水のかげんです。水が少なすぎると肥料にならず、多すぎると出来るのに時間がかかったそうです。ふんだ時に地下足袋(たび)の指の間から、じわっと水が出てくるくらいがちょうどいいそうです。

 水をかけたあと、しばらくして上下をひっくり返して、また同じように水をかけたそうです。これを2、3回くりかえすとモバの肥料ができます。ふんでおさえることをくり返すうちにモバはくさり、70度くらいの熱が出たそうです。季節によってちがいますが、2、3週間から1か月くらいで肥料が出来たそうです。

 こうして作るモバの肥料は、1日に1t、1年間で30tほどになったそうです。その肥料で、かきやびわ、いも、麦、あわ、きび、そば、じょちゅうぎくなどを育てました。

 また、引野地区には「モバ当番」という制度があり、当番になった日には、はまに流れついたモバを自分のものにできました。当番の家は、モバ当番と書かれた木の札を家の前にかけました。札は手わたしでわたされ、1けんずつ毎日まわしていました。1日だけと決まっていたので、雨の日でとることができなくても、よく日には次の人にまわしていました。

 お話をうかがった越智五郎(おち・ごろう)さんは88才です。1931年に弓削島の引野地区で生まれました。ふつうは大人がモバをとっていましたが、五郎さんは子どものころから手伝っていたそうです。モバを舟にあげるのが「重たくてしんどかった」と教えてくださいました。

 五郎さんがモバを肥料にする理由は、土をやわらかくするためと、なめくじを防ぐためだそうです。今はモバを舟でとりに行くことはしないで、はまに流れついたモバを肥料として使っているそうです(※2)。

※1 一ぱん的には、海そうがしげる場所を藻場(もば)と言います。
※2 当時から、根ごととらないなどとりかたを工夫していましたが、現在は数もへり、魚の産卵場所となる貴重な海そうとして、保護ちいきをもうけ、さいしゅを制限する動きがあります。

※年れいは2020年3月末時点のものです。

【取材協力】
越智 五郎(おち・ごろう)さん(1931年生まれ・弓削島出身)

【調査・文章・写真・イラスト】
2019年度弓削小学校6年生

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