庄右衛門一揆(しょうえもんいっき)
江戸時代(えどじだい)のお話です。弓削島(ゆげしま)・土生地区(はぶちく)に、庄右衛門(しょうえもん)という人が住んでいました。1704年(宝永(ほうえい)元年)から災害が続いて作物がとれず、年貢(ねんぐ)がおさめられないことに人々は、困っていました。1708年(宝永5年)、土生の組頭(※1)だった庄右衛門は、土生の百姓(ひゃくしょう)だった五郎左衛門(ごろうざえもん)をリーダーに、計5名で庄屋(※2)に年貢を減らしてほしいと願い出ました。けれども、庄屋は何もしてくれなかったので、さらに10人を加えてお願いしました。すると、庄屋はリーダーとみられる5名をとらえて今治へ送り、残り10名を村内の土蔵(どぞう)に閉じこめてしまったのです。庄右衛門は組頭をやめさせられました。
けれども、百姓たちは、再び立ち上がりました。同年11月11日、庄右衛門が中心になって、今度は、村人30名で再び庄屋に年貢を減らしてほしいと願い出ました。しかし、庄屋らがそれを代官所へ通報し、願い出た全員をとらえました。その結果、中心となった庄右衛門ら3名が打首獄門(うちくびごくもん※3)となり、かれらの息子も斬首(※4)、妻子は追放となりました。それ以外の10名は、妻子と共に追放というきびしいばつを受けました。
庄右衛門をはじめ、ぎせい者の人は「つみ」を負って殺されたため、お墓を作ることはできませんでした。事件から約50年が経った1764年(明和元年)に弓削島・土生地区の定光寺入口にひっそりとおじぞうさまがつくられました。それがぎせいになった人々のお墓です。また、その後、庄右衛門の名をきざんだ石ひがまつられるようになりました。
庄右衛門について調べて、江戸時代の上島町は、災害がつづいて作物がとれず、人々はとても困っていたことがわかりました。勇気ある庄右衛門のことを、もっとたくさんの人たちに伝えたいと思いました。
※1 組頭(くみがしら):百姓の中のリーダー。庄屋の補佐(ほさ)をする立場
※2 庄屋(しょうや):村のリーダー。
※3 打首獄門(うちくびごくもん):首を切られた後、首を台にのせて、見せしめとしてさらしものにされる刑(けい)。
※4 斬首(ざんしゅ):首を切り落とされる刑(けい)。
【取材協力】
上島町教育委員会 学芸員
有馬 啓介(ありま・けいすけ)さん
【参考文献】
弓削町役場「弓削町誌」1986年(昭和61年)
愛媛県教育委員会人権教育課「えひめ人権の道しるべ(改訂版)」2015年(平成27年)
【調査・文章】
2017年度弓削小学校6年生