濱田國太郎(はまだ くにたろう)

「日本海員組合をつくった濱田國太郎(はまだくにたろう)」

(イラスト:火夫の仕事)

 濱田國太郎(はまだくにたろう)は1873年(明治6年)、生名島(いきなじま)に生まれました。わずか12才で生名を出て船員(船乗り)になりました。外国船にも乗り、経験を積んで、やがて日本郵船(にほんゆうせん)の火夫長(かふちょう※1)になりました。

 1895年(明治25年)、火夫の月給は、8.5円だったのに対し、船長は180円でした。50度以上の中でひたすら石炭をくべる火夫の仕事は、とても大変で、ケガをする人もたくさんいました。そんな船員の労働条件を改ぜんするために、國太郎は、日本最初のストライキを行いました。ストライキとは、働く人がいっせいに仕事を休むことです。船員が全員休んでしまったら、船を動かすことができず、船会社は困ってしまうので、船員に働いてもらえるよう要望を受け入れるというわけです。こうした労働運動を通じて、船員の待ぐうは急速に改ぜんされ、日本海員組合がたん生しました。

 そして1927年(昭和2年)に、國太郎は、第2代の日本海員組合長になりました。間もなく、国際労働機関(ILO)海事総会に日本代表として出席するなど世界でも活やくしました。

 引退すると、神戸に雷声寺(らいせいじ)を作り、初代住職になりました。海でなくなる人のたましいをしずめたいとの思いがあったようです。住職になった後も、労働問題の話し合いなどに協力し、1958年(昭和33年)に85才でその生がいを終えました。

 國太郎が亡くなった後、生名島の厳島(いつくしま)地区に國太郎の銅像ができました。しかし、戦時中に銅像は武器の材料として軍に回しゅうされました。その後、銅像のない時期が続きましたが、2017年(平成29年)に「濱田國太郎を顕彰(けんしょう)する会」の活動により、新しい銅像が立てられています。

 國太郎の家は貧しく、小学校も卒業できずに船乗りになったため、文字は読めませんでした。しかし、かしこく人望がある人だったそうです。こうして、弱い立場の人を守り、世界で活やくしていた國太郎は、島人から尊敬されていました。國太郎が島に帰ってくるときは、小学生全員でお出むかえしていたそうです。また、最初の銅像を作るときは、小学生も手伝ったそうです。また、國太郎は、生名小学校にウミガメの標本や吹奏楽器(すいそうがっき)を寄付し、島の子どもたちの教育にもこうけんしました。

【取材協力】
弓削商船高等専門学校(ゆげしょうせんこうとうせんもんがっこう)・岡山商科大学名誉教授
村上貢さん(1926年生まれ・生名島出身)

【調査・文章・イラスト】
2017年度生名小学校5・6年生

 

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