麻生イト(あそう いと)

「麻生イトと生名島」

 麻生イト(あそういと)は、1876年(明治9年)に尾道(おのみち)で生まれ、1956年(昭和31年)、80さいのときに生名島(いきなじま)でなくなった女性事業家です。

 小学校を終えると、神戸に養女に出され、結こん、りこんと苦労を重ね、各地を転々としたようです。30さいのころ、因島に住み着き、大阪鉄工所(日立造船の前身)の下うけ業として古くなった船をかい体する仕事や、麻生旅館や城山クラブ(しろやまくらぶ/今のナティーク城山)の経営を行いました。

(イラスト:麻生イト)

 イラストを見てください。イトは女性ですが、男性のようなかっこうをしていると思いませんか?イトは、「男そうの女けつ」とも呼ばれています。男性のかっこうをした女親分という意味です。かみを短くかり上げ、筒袖(つつそで)の着物に兵児帯(へこおび)という男性の服そうをしていました。また、自分のことを「おじさん」や「おじいさん」と呼ばせていたそうです。

 なぜイトが男性のようなふるまいをしていたのかは、はっきりとわかりませんが、男性に負けないでたくましく生きるためだったのではないかと考えられます。麻生組では多いときで数百人の人をやとっていたと言われていますが、当時はまだ、女性に選挙権(せんきょけん)すらなかった時代です。そんな中、女性がたくさんの人の上に立つには、大変な苦労があったのでしょう。

 また、イトはもうけたお金を地域のために使いました。例えば、因島・土生地区にようち園や女学校を建てる支えんを行ったり、街にはい水こうをつくったりしました。こどもはいなかったようですが、養女をむかえ、女学校に通わせるなど、弱い立場にある人を助けたそうです。

(写真:三秀園)

 年を取ってからは、生名島の立石山のふもとに「三秀園(さんしゅうえん)」という公園をつくり、立石山中腹にまつられている子安観音(※1)を大切にしました。そして、三秀園に別そうを建ててくらしました。

 三秀園と名付けたのは、当時の愛媛県知事・市村恵三(いちむらけいぞう)で、安芸(今の広島県西部)、備後(今の広島県東部)、伊予(愛媛)の3州の優れた景色が集まった公園という意味がこめられています。また、公園にある「三秀園」と刻まれた石ひは、有名な政治家・尾崎行雄(おざきゆきお)による書です。同じ時代に活やくした生名島出身の濱田國太郎(はまだくにたろう ※2)がこの公園でくつろいでいる様子の写真も残っており、様々な有名人がイトと交流していたようです。

 公園をおとずれたのは、有名人だけではありません。公園の池は、子どもたちの遊び場になっていました。また、新年には焼きみかんを子どもたちにあたえ、それを食べると幸せがもたらされると言われていたそうです。

 イトについては、有名な俳人(はいじん)・河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう※3)が「瀬戸内海の人格者(すぐれた人)」とたたえたり、今東光(こん・とんこう※4)が「悪名(あくみょう)」という小説でえがいたり、小説家の林芙美子(はやし・ふみこ)や歴史家の奈良本辰也(ならもと・たつや)の本にも登場したりと、多くの人との関わりがあったようです。

 現在も三秀園の一角、立石山の登山口にイトの石像(馬越栄造(うまこしえいぞう)の作品※5)があり、島の未来を見守っています。

※1 子安観音(こやすかんのん):安産や子どもの成長を見守る観音
※2 濱田國太郎(はまだ・くにたろう):1873年〜1958年、生名島出身。日本会員組合第2代組合長になり、ILO(国際労働機関)の国際会議に出席するなど国内外で活躍
※3 河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう):1873年〜1937年、松山市出身。正岡子規の弟子。
※4 今東光(こん・とんこう):1898年〜1977年、横浜市出身。小説家、僧侶、政治家。
※5 馬越栄造(うまこし・えいぞう):愛媛県伯方島出身。ちょう刻家。大三島・大山祇(おおやまづみ)神社の社号ひ(神社の名前を刻んだ石ひ)を作る。

【取材協力】
弓削商船高等専門学校・岡山商科大学名誉教授
村上貢さん(1926年生まれ・生名島出身)

【調査・文章・イラスト】
2017年度生名小学校5・6年生

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