赤穂根島
◼赤穂根島とは
赤穂根島(あかほねじま)は、岩城島の南約300mの海上にうかぶ、周囲約6㎞、面積約2k㎡の無人島(※)です。無人島としては、大きな島です。
縄文時代の土器や石器が発見されており、縄文時代から人が暮らしていたと考えられています。その後の時代にも人が暮らしていたようですが、昭和26(1951)年ごろに無人島になりました。しかし、となりの岩城島から畑をするために船で通う人はいました。平成13(2001)年には、今回お話をお聞きした宮脇馨さんご夫妻が岩城島から移住され、人口2人となっています(2021年現在)。
今は、定期船はなく、チャーター便で行くことができます。
(写真:赤穂根島の遠景 提供:上島町教育委員会)
(写真:昭和60年当時の赤穂根島の航空写真 提供:宮脇馨さん)
■赤穂根島の生物
2004年から2007年に行われた愛媛県総合科学博物館による調査では、赤穂根島には69種類の鳥類など、たくさんの種類の生物が確認されました。その中でも特に特ちょう的なものをしょうかいします。
魚類では、水田や水路で準絶滅危惧種(じゅんぜつめつきぐしゅ)のドジョウがたくさん確認されました。また、水田の水路や竹の浦の海岸、堤防(ていぼう)などで、野生のメダカが確認されています。
鳥類では、2007年に海上を飛ぶ川鵜(かわう)、2005年12月に水田に迷いこんできたと思われるオオハクチョウが確認されました。
赤穂根島は、瀬戸内海の真ん中にあるので、東西の生物が両方いるそうです。ほとんど人の手が加わらなくなった赤穂根島の環境を調べることは、自然の生態系の原点を知ることにつながるそうです。
■赤穂根島と橋
1971年ごろには、農業をする人のために赤穂根島に橋をかける計画が立てられましたが、農業をする人もいなくなり、中止になりました。計画書によると、岩城島との間にかかる予定でした。 赤穂根島は岩城の人にとって、かつてはそれくらい重要な島だったということが考えられます。
■赤穂根島の名所
古い歴史を持つ赤穂根島には、いくつかの歴史的名所や伝説があります。その中からいくつかしょうかいします。
1.塩垂比丘(しおたれびく)の石ひ
平安時代、宮崎のおぼうさんが京都へ行くとちゅうで病気になり亡くなってしまった時に建てられたといわれる石ひです。赤穂根八幡(はちまん)神社の近くにあり、高さ約120センチの四角柱で、天辺に四角い石のかさがつけられていて、四面には仏像がほられています。
(写真:現在の塩垂比丘の石ひ 提供:上島町教育委員会)
2.丸串古墳 (まるぐしこふん)
箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ/石の板を組み合わせて作る箱型の墓)ですが、もとの形は残っておらず、作られた年もわかっていませんが、古墳時代(こふんじだい/3世紀後半から7世紀ごろ)にできたとされています。当時、そのあたりで力を持っていた豪族(ごうぞく)のものだと考えられています。
(写真:塩垂比丘の石ひ、丸串古墳がある場所 提供:上島町教育委員会)
3.赤穂根島の名前の由来
赤穂根島は、能島村上水軍(のしまむらかみすいぐん)の水軍武将(ぶしょう)、赤畝氏(あかうねし、またはあかせし)が治めていたと考えられています。この「あかうね」が赤穂根島の名前の由来になったといわれています 。
この他に、戦いで敗れた高知の武将、長宗我部氏(ちょうそかべし)の姫(ひめ)が、赤穂根島にのがれてきて建てた「尼寺(あまでら)」があったという伝説があります。この寺は大雨による土砂くずれが原因でうもれてしまい、無くなってしまったそうです(ふきヶ谷廃寺(はいじ)伝説)。しかし本当かどうか定かではありません。とてもわくわくします。
■赤穂根島の地下水
取材に協力してくださった宮脇さんは、無人島だった赤穂根島に2001年から住み始め、自給自足の生活をされています。水は、井戸をほってくみ上げているそうです。赤穂根島は、地下水がとても美味しいそうです。農薬を使っている人がいないので、安心して飲めるともおっしゃっていました。地下水で入れたコーヒーは最高だそうです。
(写真:宮脇さんとぼく)
この記事を作るにあたり、協力してくださった宮脇馨さんに感謝します。
【参考文献】
岩城村役場『岩城村誌 下巻 現代編』1986年(昭和61年)
公益財団法人日本離島センター『日本の島ガイド「SHIMADAS」』2004年(平成16年)
愛媛県総合科学博物館『愛媛県越智郡上島町赤穂根島総合生物調査』2007年(平成19年)
【取材協力】
宮脇 馨(みやわき・かおる)さん
上島町教育委員会 学芸員 有馬 啓介(ありま・けいすけ)さん
【調査・文章・写真】
2021年度弓削小学校6年生