奥平久兵衛(おくだいら・きゅうべえ)

■奥平久兵衛とは
 奥平久兵衛(おくだいら・きゅうべえ)は、江戸時代の半ば、1741年に松山から生名島に島流しにされ、生名村(当時)の岡庄(おかじょう)地区の大日堂に住んでいた、松山藩の元家老(かろう/家臣のなかでも一番えらい人)です。

 身長・体重・生まれた年など、はっきりしたことは分かっていません。剣(けん)の達人で、勉学にも秀(ひい)でていたと言われています。お酒好きでもあったそうです。

■享保の大飢饉
 奥平久兵衛は、どのように家老になり、またなぜ島流しにされたのでしょうか。

 1732年、長雨とウンカという害虫の大発生で農作物がとれず、多くの人が餓(う)えて亡くなった「享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)」が起きました。食べるものがなくなった農民たちが城下へおし寄せたため、松山藩は人々を救うために、幕府(政府)から12,000両(※)を借り入れました。

 次の年、藩主が松平定喬(まつだら・さだたか)に変わってすぐに、当時の家老だった奥平藤左衛門(おくだいら・とうざえもん)は飢饉の責任をとらされ、久万山に蟄居(ちっきょ/ひとつの部屋に閉じ込められ、外出がゆるされないこと)、家来の山内与右衛門(やまうち・よえもん)は切腹となりました。そして藤左衛門に代わり、奥平久兵衛が家老となったのです。

■久万山騒動
 しかし、奥平久兵衛が、復興のために農民たちに重い税を課したことが原因で、寛保元年(かんぽうがんねん=1741年)、久万山の農民3,000人がとなりの大洲藩へ逃げ出すという「久万山騒動(くまやまそうどう)」が起こりました。

 そのため藩は、奥平久兵衛を生名島(当時の生名村)への流罪としました。一方で、享保の大飢饉の時に切腹になった山内与右衛門を「無実の忠臣(ちゅうしん/ちゅうじつな家来)」とし、与右衛門をまつる山内神社を建てたそうです。

■生名村に来てから、久兵衛の最期
 生名村に来てからの久兵衛は、武術(ぶじゅつ)や学問を村人に教え、大変愛されていました。また、今でもふるさとの偉人(いじん)として生名島の小学校の教科書でしょうかいされています。

 生名村誌にある民話によれば、久兵衛をとらえるため、1790年に松山藩から捕り手(とりて)達が生名島へ来たそうです。しかし、久兵衛は剣の達人(たつじん)だったため、八畳(約15㎡)の間で二間(約3.64m)のヤリを自由に使いこなし、畳(たたみ)どんでん返しの術を使うなどして、捕り手達を困らせました。

 しかし久兵衛は優しすぎてしまったのか、捕り手達に「あなたの首を持って帰らなければ役目が果たせず、松山に帰れない」と泣いてたのまれたため、自分の首を切らせました。その首は松山に運ばれたそうです。これが久兵衛の最期(さいご)です。

■奥平久兵衛の墓
(写真:奥平久兵衛の墓の像)

 久兵衛の墓は、生名島の「正福寺(しょうふくじ)」にある墓山の頂上に近い東側にあり、松山の方を向いて建てられています。「お墓参りをすると勉強ができるようになる」といわれており、今でも受験の時などにお参りする人もいます。みなさんも行ってみてはどうですか。

※一両=現在の価値で約十万円

【参考文献】
生名村役場『生名村誌』2004年(平成16年)
上島町役場『広報かみじま2011年5月号』
愛媛県生涯学習センター『データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム」2009年(平成21年)

【取材協力】
上島町教育委員会 学芸員 有馬 啓介(ありま・けいすけ)さん
小松山 正福寺 住持 第十一世大圓禅輝大和尚

【調査・文章・写真】
2021年度弓削小学校6年生

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