テンテコ踊り
テンテコ踊り(おどり)は、毎年8月15日に行われる魚島の伝統行事です。
テンテコ踊りが始まったのは、南北朝時代(1336〜1392年)と言われています。このころ、新田義貞(にった・よしさだ)の家来(けらい)である篠塚伊賀守(しのづか・いがのかみ)が戦いに敗れて、魚島ににげてきたそうです。篠塚伊賀守は、次の戦いに備え、その練習のためにテンテコ踊りを始めたそうです。
テンテコ踊りは、東西に分かれ、2組が向かい合って行います。それぞれの組の先頭に、鬼(おに)の面をつけた「ダイバン」と呼ばれる人が2人います。先頭にいるダイバンは、ササを持っています。その後ろにいるダイバンは、棒(ぼう)を持っています。2人のダイバンは、戦い合いながら、前に進んでいきます。
(写真:ダイバン 提供:上島町)
ダイバンの後ろに、たいこやかね(鉦)を鳴らす人、刀などを持ったおどり手が20人ほどの行列になって続きます。おどり手は、顔を白くぬったり、ひげをかいたり、化粧(けしょう)をします。化粧をする理由は、戦いの練習をしていることがばれないようにするためと言われています。
たいこやかねを持った人が、「テンテコ テンテコ テンテコヤー」とはやす(歌う)と、おどり手が「コリャセー ソリャセー」とはやし、左右に飛びながら前に進んで、2組の行列がだんだんと近づいていきます。2組がぶつかると、先頭の「ダイバン」が勝負をします。勝負といっても、勝ち負けがはっきりしているわけではありません。
(写真:テンテコの行列 提供:上島町)
テンテコ踊りが終わると、見物客は、ダイバンが持っていたササの枝を分けてもらいます。そして、家に持ち帰り、入り口に差します。これには、魔除け(まよけ)の意味があるそうです。
昔のテンテコ踊りは、今と少しちがったそうです。昔ははまべで行っていましたが、今は道路で行っています。また、昔は地元の男の人だけで行っていましたが、今は人数が少ないので、女の人や帰省してきた人、観光客も参加しています。衣装(いしょう)もちがったそうです。昔は、自分の家から着物を持ってきていたそうですが、今は、地域で用意してくれているので借りることができます。
また、今では行っていない風習もあります。それは「テンテコめし」です。テンテコめしは、テンテコ踊りが行われる日に、15歳くらいまでの女の子が行っていたそうです。何をするかというと、まず、お墓におそなえしてある木を集めてきます(※1)。そして、浜辺(はまべ)に石で簡単なかまどを作ります。集めてきた木を使って火を起こし、小さななべでごはんをたきます。これがテンテコめしです。テンテコめしも、戦いに備えるため、たき出しの練習として行われていたと言われています。
魚島保健福祉センター「龍宮苑」にいらっしゃった80〜90代の方に、テンテコ踊りの思い出を聞きました。
・テンテコの衣装が派手できれいだった。
・昔は浜辺で行っていたので、潮(しお)が干いた時間に行っていた。
・顔に炭をぬって、化粧することもあった。
・テンテコめしは、おにぎりにして食べていて、おいしかった。
・ふだんは夜10時か11時でしか電気が使えなかったが、お盆(ぼん)の時期は12時まで使えた。
時代によって形は変わっていくかもしれませんが、魚島の貴重な文化が続いて欲しいなと思います。
※1 魚島では、新盆(あらぼん:人が亡くなってから初めてむかえるお盆)のお墓に、百束(ひゃくたば)と呼ばれる100本の細い木をおそなえする風習があります。
【参考文献】
魚島村『魚島村誌合冊版』2007年(平成19年)
【取材協力】
魚島保健福祉センター「龍宮苑」のみなさん
【調査・文章】
2019年度魚島小学校6年生