上弓削地区の古民家
■上弓削地区の古民家
弓削島の上弓削地区には、江戸時代〜昭和のはじめごろに建てられた「古民家」が今も何軒(けん)も残っており、建てられた年代や特ちょうが調査されたものもあります。その古民家の中には、登録有形文化財(とうろくゆうけいぶんかざい/都市化によって取りこわされていく古いたてものを守るために作られた制度)に指定された建物もあります。
■江戸時代の大火事と復興
上弓削地区は、江戸時代のはじめごろには上弓削村と呼ばれ、弓削島で一番大きな集落として栄えていました。しかし、元緑期から宝永期(げんろくき、ほうえいき/江戸時代のなかばごろ)にかけ大火事が起こり、とても大きな被害(ひがい)を受けました。
その時、となりの久司浦(くじうら)地区に住んでいた田頭浄貞(たがしら・じょうてい)は、上弓削地区へ移り住み、上弓削地区の復興に努めました。さらに浄貞は、上弓削地区の高浜八幡神社の近くにある「とみ山」のふもとをくずして「浄貞新開(じょうていしんかい)」とよばれる田畑を作ったり、上弓削港を開いたりしました。
上弓削村はその後、今治藩(はん)が参勤交替(さんきんこうたい)をする時に、身分の高い人達がとまる「本陣(ほんじん)」として、また船旅にちょうどよい潮や風を待つための「潮待ち」や「風待ち」の港町として、ふたたび栄えました。
(写真:田頭家の蔵とされる建物)
このように、古い歴史があること、そして、空しゅうなど戦争の被害にあわなかったことや大規模な開発がなかったことが、上弓削地区に古民家が多い理由だと考えられます。
■上弓削地区に見られる、古民家の特ちょう
上弓削地区の古民家には、特ちょうがあります。たとえば「なまこ壁(かべ)」といわれる壁です。壁にかわらをならべてしっくい(漆喰)でとめています。田頭家の蔵とされる建物の「なまこ壁」には、ひし形の模様が見られます。また、しっくいぬりの「腰(こし)なまこ」といわれる模様の古民家も見られ、小林の「小」など家の名前をかたどったものなどがあります。
上弓削にはいろいろな古民家があります。私は、上弓削の古民家の特ちょうや、上弓削の古民家は大火の時代を乗りこえたというのを知ってもらいたいなと思いました。
(写真:名前の小をかたどった腰なまこがある家)
※田頭 浄貞(たがしら じょうてい)
承応2年(1653年)5月3日、源助を父、大島津倉の庄屋池田四郎衛門の娘を母として、久司浦の田頭邸に生まれました。田頭家の5代目に当たります。とても実行力があり、宝永年間(1704~1711年)に久司浦に港を作るなど、庄屋(しょうや)として村のためによい行いをしたので、近くの島々にもその名が知られていたそうです。
【参考文献】
弓削町役場『弓削町誌』1986年(昭和61年)
弓削町役場『弓削町の地図帳(ゆげ見て歩きマップ)』2002年(平成14年)
【取材協力】
上島町教育委員会 学芸員
有馬 啓介(ありま・けいすけ)さん
【調査・文章・写真】
2021年度弓削小学校6年生